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7/17 大西つねき会見全文

この度、私、大西つねきは、れいわ新選組を除籍されました。つきましては、その発端となった発言とその後の経緯、今後についてお話しします。

まずは問題になった、私の7月3日の自身の動画チャンネルにおける発言について説明させていただきます。

私の発言の真意は次のようなものです。これから少子高齢化が加速し、要介護者が遠からず1000万人を超えると言われている中、介護従事者の倍増は急務です。しかし、現状はお金の問題、つまり間違った財源論が原因で介護従事者の給与も安く、十分な従事者を確保できない状態になっています。だからこそ私は、この間違えた財源論による緊縮財政の呪いを打破するために、れいわ新選組の構成員として活動して来ました。

しかし、これは本質的にはお金の問題ではありません。もし我々が主張していたように、財源論の思い込みが外れ、お金がいくらでも作れることが理解されれば、上限はお金ではなく、それで動かせる人の時間と労力という「実体リソース」の有限性になります。少子高齢化で人口バランスがとてもいびつになる中、果たして十分な人材を確保できるのかどうか。また、お金の問題をクリアしたとしても、その時には他の仕事の給与水準も上がっています。他にも魅力的な仕事がたくさんある中、どれだけ介護の仕事に魅力を感じてもらえるのか。もし日本人労働者が足りなければ、海外労働者の受け入れ、またはAIやロボットによる介護などの選択肢もあるかもしれませんが、それでも結局は、それも含めた総労働力の配分となり、介護以外も食糧、エネルギーの自給や一定の外貨の確保、その他皆さんの生活に必要なあらゆる仕事がある中で、どこにどれだけ配分するかというのは、一面だけを見ては決められない難しい国家経営上の決断になります。

私は必ずしも悲観的ではありませんが、人の気持ちと未来はわかりません。もしかしたら、我々は苦渋の選択を迫られるかもしれない。その可能性を100%否定できるでしょうか?もしできないのなら、我々はそれについて考えておかなければならないと思います。その時に我々はどうするのか?ただ何もせず、現場と当事者に押し付け続けるのか?何かするのであれば、どんな考えに従って、何をどう行えばいいのか?

もちろん生産性や能力、ましてやナチス・ドイツが行った人種による選別などとんでもないと思います。私はそんなことは一言も言っておりません。むしろ、反射的にそんなことを連想する方が、私は差別と偏見に満ちていると思います。なぜなら、そこには、ご高齢者=生産性の低い人という決めつけが見て取れるからです。私はそもそも人を生産性で測れるとは全く思っていません。むしろ、生産性、つまり短期的にお金を生み出す能力、で序列を生み出す仕組みが今の金融システムであり、だからそれを変えようと10年近く活動してきたことは、私の著作や動画を見れば簡単にわかります。

私は、どうしても何らかの方策が必要なのであれば、高齢になれば死が近づくという自然の摂理にしたがって考えるべきではないか、と言っています。勿論これはただ年齢で分けるような単純な話ではなく、むしろ間違った財源論の問題を解決すれば、年金も十分払えるわけですから、好きなだけ健康で長生きしていただいて、最後に病気になられた時に、何がなんでも延命を続けるのではなく、医師のアドバイスに基づいて延命中止のための何らかのルールを作るなど、最後の出口を少しだけ緩めるということです。今はまずは延命措置が必要ですから、ご本人の意思がわからないままご家族がその責を負ったり、ご家族同士が一致しなかったり、無理な延命で尊厳を失ったりと、すでに色々な問題があるはずです。それを少しだけ、自然の摂理にしたがって緩和する必要があるのではないか、という話です。

もう一つ、今回の発言に至った背景をご説明すると、新型コロナの影響です。世界的に重症化リスクはご高齢者に特に高いというデータが出てきている中で、若い世代へのしわ寄せがとても大きいと感じています。緊急事態宣言は解除されましたが、「新しい生活様式」は我々の生活を一変させています。特に子どもたちの生活はかなり制限されていて、屋外で遊ぶことも友だちとおしゃべりすることも制限される例も聞いています。「子どもたちの命を守る」、「クラスターを防ぐ」などの意見もわかりますが、本当にこれで良いのでしょうか?

例えばご心配なご高齢者には外出を控えていただき、生活に必要なスーパーなどでのご高齢者タイムゾーンを設ける、高齢者施設の対策を強化するなどして、その他は通常の生活様式に戻すというような案は考えられないでしょうか?それによって、確かに感染者数も増え、結果的にご高齢の死亡者数は増えるかもしれません。それは命の選別だからダメだと言われるかもしれません。しかし、このまま行けば、膨大な数の経営破たんと失業者を生み、もしかしたらその中で失われてしまう命は「新しい生活様式」によって選別されていないのでしょうか?また、仮に死を迎えなくても、子どもたちを始め、今を大切に生きる人たちの時間も命です。その人たちの時間の過ごし方も命の問題ではないのでしょうか?

私が「政治家が命を選別しなければならない」と思わず言ってしまったのは、このように命の選別になりかねない考えも恐れず発信し、場合によってはそれに賛同する人々の負託を受けて、代理人とし実行する仕事であるということです。それを政治家が尻込みしていて、他に誰ができるのか、と言う話です。

そもそも、全ての政治決断は命に直結します。何に予算をどれだけ組むか、それによって制度のと内と外が生まれ、制度に救われない可能性の人が出ます。どんな医薬品、農薬、添加物を認可するかによって、命の長さや質が変わります。また、どんな経済政策を取るかによって、国民の資産が例えば他国の軍費となり、たくさんの人を殺すかもしれない。朝鮮戦争やベトナム戦争で日本の基地から出撃した米軍がどれだけの人を殺したのでしょう?つまり、その影響範囲と時間軸を狭く短く取るから見えないだけで、政治家の決断は結果的に命の選別になる、そういう仕事であることをはっきり自覚してやるべきだ、ということです。

もっと言うと、皆さん一人ひとりの決断と行動も命に直結します。この世にゼロリスクはありませんから、車に乗るにも、飛行機に乗るにも、外を歩くにも命はかかっています。我々が海外から食糧や衣服を安く買い続けた結果、児童労働で海外の子どもたちの命が脅かされ、バングラディッシュの縫製工場の悲惨な事故で命が奪われたりもします。食肉文化によって、絶滅危惧種の動物を守りながら、別の動物の命を選別していたりもします。つまり、我々はみんな少しずつ命を危険に晒し、他の人や動物の命を脅かしながら、自分の時間、すなわち命を削りながら生きています。それが我々の生活のリアルであり、その相関性や複雑性が見えてきたら、どんなリスクを取ってどんなリスクは取らないのか、その取捨選択も冷静にできるようになる。そうすれば、このコロナのようなことが起きた時も、取捨選択の話ができるようになり、最終的に自分たちで自分たちの生き方、死に方を決めることができる。皆さんが選別するということは、その代理人の政治家が選別するということです。それで不安を感じるのだとすると、我々が我々自身を信じていないということになります。今回の発言はそういった意味も含んでいます。

以上、あまりにも不適切で説明不足だったため、改めてご説明いたしました。

次にれいわ新選組から除籍を受けるまでの経緯についてご説明します。

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私が問題の動画をYouTube Liveで配信したのが7月3日の午後8時からです。当初は特に反響はありませんでした。多くの方が元々私のチャンネルの視聴者だったため、言葉が悪くても真意が伝わったせいだと思いますが、私がそれに甘え、丁寧な説明を怠ったために、その一部だけが切り取られ、拡散されて騒ぎになりました。

これを受けて、7月7日に党本部から呼び出しがあり、代表と面談しました。私はきちんと説明したい意を伝えましたが、「何を言っても言い訳になる。これは除名か謝罪、撤回しかない。」とのことで、私は謝罪と撤回を選びました。同時に元の動画に関しても、公開停止にした方が良いという党の意見を受け入れ、非公開にしました。いずれも、その時はその方が良いとの私の判断でした。その後帰宅してから謝罪文を書き、それを党に提出して事務局のご意見を頂き、それに従って修正を加えた後に公開しました。

翌8日に党の方から生命倫理の先生のレクチャーを受けていただくとの連絡を受け、スケジュール調整を行い、最終的に7/13,14,15の3日間のスケジュールが組まれ、13日が京都で行われる予定だったので、私は12日の豊橋講演の後、関西に宿泊して待機しておりました。しかし、12日の夜に中止の連絡が来たため翌日に帰宅後、14日と15日のレクチャーに参加しました。

レクチャーの内容は、14日がれいわ新選組の木村英子さんと当事者の方々とのお話、15日は難病を抱えた当事者の方との対話でした。いずれも有意義な時間だったと思いますが、私の発言はあくまでもご高齢者に関することで、障害や
難病を抱えた方たちに対しては一言も言っていないため、これらをもって党が何を意図したか、私には不明です。恐らく、命の大切さについて私を教育してくださろうとしたのだと思いますが、私はこの流れでれいわ新選組に残ることはできないと思いました。

なぜなら、それは、私の思想に問題があり、それを2回のレクチャーという教育によって矯正し、人は変われるというところを見せて再出発というシナリオに思えたからです。恐らく代表は私にチャンスを与えようとして考えてくださったのだと思いますが、私の思想が本当に党が判断したようなものかどうかは、私の他の動画や著作、さらには講演会に足を運べばすぐにわかってしまいます。最初からその前提が真実ではないと私自身が思う中でそれに乗ってしまっては、私が自分自身に嘘をつくことになります。したがって、私は総会の前日、15日のレクチャーが終わった時点で代表に離党の意を伝え、離党届を提出しようとしましたが、受理されませんでした。

そして翌16日、改めて総会に離党届を持って参加しましたが、最終的には除籍という結果に終わりました。れいわ新選組には一年前からお世話になり、今回の失言で大変なご迷惑をおかけして心苦しい限りですが、代表の山本太郎氏には感謝しかありません。党と代表の今後の発展とご活躍をお祈りしたいと思います。


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次に、すでに昨日の代表会見で明らかになった通り、謝罪を撤回した件に関してお話しします。
批判はされるでしょうが、これは敢えて自分の身を晒しての、皆さんへの問いかけです。

確かに今回、私は政治家にはあるまじき言葉使いをし、それによって恐怖や不快な思いを感じられた方がたくさんいらっしゃったことはよくわかります。その点については深く反省し、今後細心の注意を払いたいと、これは本気で思っております。

ただ、起きたことを整理させていただくと、私が「命の選別」という、とても怖いことを連想させる言葉を十分な説明もなしに使ったため、その部分だけが切り取られ、一人歩きしたこともあって、それぞれが自分の体験や知識や考えを通してその言葉を解釈したということです。場合によっては私が全く言っていないことも含め、拡大解釈されました。世の中はそういうもので、だから政治家は言葉を丁寧に扱わなければならない、それは今回私も十分学びましたが、私は敢えてそういう世の中に問うてみようと思います。

言葉はそもそも、考えを伝えるためのものです。つまり、言葉がただ存在するのではなく、その言葉を発する人間がいて、その考えや思いを通じ合うために存在します。ですから、本質は人、言葉を発する人とその考えであり、言葉を受け取るということは、その人とその考えを理解しようとするということです。もし、あの切り取られた言葉を受け取った人たちが、その本質に従って理解しようとしたならば、恐らく言葉が足りないと感じたと思います。そして、きちん
と理解しようと思ったら恐らく説明を求めます。実際、私のところには説明を求める声がいくつも届きました。それは極めて理にかなった反応だと思いますが、私が今日まで説明しなかったのは、党からレクチャーが終わるまで発信をしないよう要望が来ていて、それを尊重することに私が決めたからです。

ただ実際は、これは決してダメだというわけではないのですが、多くの人がその言葉だけで判断、反応しました。なんとあの朝日新聞までがそれを報じました。もし朝日新聞が、言葉の本質に従って真実を報道しようとしたなら、恐らく私に取材してその真意を確かめたでしょう。しかし実際はそれもなく、ただ切り取られた言葉だけを取って報道されました。お陰様でさらに多くの人が、その一言だけで判断、反応し、騒ぎは拡大しました。

ただ、繰り返しになりますが、私はそれも否定しません。それが私の考えや私自身とかけ離れたとしても、人は判断したいように判断し、反応したいように反応します。それは自由です。そして、そこで生まれた感情も完全にその人のものです。どう感じてもいいし、どう思ってもいい。ただし、それがその人のものである限り、それを誰か他の人のせいにするのは違うと思います。言葉がそう感じさせるのではなく、言葉を受け取った本人が自分で感じるものだからです。それが仮に何らかの制約、強制で、自分だけのものでなくなったらどうでしょう?自分の感情をコントロールされたいでしょうか?

そういった意味で、実は謝罪もコントロールです。自分がした行為で相手が持った感情を和らげようとするものですから。それは善意であり、私もそうしたい時はそうします。しかし、今回は敢えてしないという選択をしました。直接誰かに何かを言って発生した感情ならともかく、ほんの一言だけ切り取られ、言ってもいないことまで拡大解釈され、それぞれの自由意志で持った感情にまで私が謝罪したら、自由の境界線がズレてしまいます。それでも、世間はそれを当然と思ったまま終わってしまうと思ったからです。言うも自由、感じるも自由、そこで自他の自由の切り分けをしないと、忖度だらけで耳触りの良いこと、一見正しいことしか言えなくなってしまいます。

それからもう一つ、謝罪を撤回した理由があります。それは私が優生思想を持ち出して批判されたことです。私にそんな考えは毛頭ないし、そもそも言ってもいないことは置いておいたとしても、その批判そのものが、優生思想に基づいていると感じました。そもそも優生思想が問題なのは、本来的に人間には優劣などない、みんな違っていてもそのままで生きて良いはずなのに、例えば生産性のような一元的な物差しで優劣を計り、それで差別するからではないのでしょうか?

みんな違っていても不当な不利益を被ることなく、そのままで生きられる社会を望んでいる人たちが、私に対して「お前は間違っている」「変われ」「考えを改めろ」と言って私の考えを攻撃し、社会的制裁を加えようとしてきました。私の考えがどんなものであっても、そもそもあまり理解されていないかもしれせんが、私は私のままで生きていてはいけないのでしょうか?自分たちが正しいから、正しくない考えは粛清される。優劣が正誤に変わっただけで、優生思想と何が違うのでしょう?

もし私がこれを認めてしまったら、常識を外れた、異端の考えの人たちはみな粛清されます。その中にこそ時代を変える種があるかもしれないのに。そもそも人に優劣などないように、この世に正しいも正しくないもないと思います。全ては主観です。正しさはそれぞれの心の中に持っておけばいいですが、それ持ち出して振り回せば、他の正しさとの戦いになります。そんなことをしていては一ミリも前に進まない。私は自分の正しさを主張して戦うつもりはありません。それは一人ひとりが自分で決めればいい。でも、自分の考えにしたがって自分であり続けることはやめません。それをやめてしまったら、私は、自分は生きていることにならないと思いますから。

また、多くの人がこのように、たった一言で人を判断し、単純な正しさに乗っかって人を叩いているようでは、次第にモノが言えない社会になります。思考は言葉で作られますから、言葉が制限されるようになれば、思考も制限されます。使ってはいけない言葉や言ってはいけないことは、触れてはいけないことになり、考えてはいけないことになる。そして思考停止すれば、向き合うべき真実と向き合えなくなります。だから私は今回は敢えて批判覚悟で突っ張ることにしました。また叩かれると思いますが、できればお手柔らかにお願いします。

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さて、最後に、今後について話します。

私は今回の一連の出来事を通じて、この国に一番必要なものがわかった気がします。

それは真実と自由と自立です。

私たちは小さな間違えや他人の反応を気にして、言いたいこともやりたいことも制限して生きているように見えます。それはもしかしたら、自分を絶対的に承認できず、その評価を人に頼っているからかもしれません。または、人が人を評価する、比べるという行為があまりにも当たり前に社会を覆い、自分自身が誰かにそれを適用して優越感を感じているからかもしれません。いずれにしても自由ではないように思えます。

自立という意味でも、私たちはどこか人任せではないでしょうか?政治家が命の選別などとんでもないと言いながら、実際に苦渋の決断を迫られた時、政治家に何とかしろとは言わないでしょうか?憲法9条で軍事力の保持を禁止し、国のために戦うというという人が10%しかいないというアンケート結果も出る中、自衛隊と在日米軍を容認しているのは、本来我々が自立して向き合わなければならない問題に向き合っていないからではないでしょうか?

我々はもっと自由で自立して、タブーなくなんでも言える、聞けるようになって初めて真実に向き合うことができるのではないでしょうか?今回の死の問題だけではなく、我々がタブー視して触れない問題、向き合わない問題がたくさんあります。

それは、例えば今言った在日米軍の問題。なぜ戦後75年も経って今だに占領軍を駐留させ、それをほとんど沖縄に押し付け、東京の制空権も奪われたまま、何の疑問もなくいられるのでしょう?日米安保で日本が守られているからでしょうか?頼りにしているその占領軍は、広島長崎に原爆を落とし、たくさんの一般市民の大量殺戮を行った巨大な暴力装置ですよね?その暴力に怯え、暴力に頼るということでしょうか?

その日米安保を通すために、CIAは戦前から政権の中枢にいたA級戦犯の岸信介、これは今の安倍首相のおじいさんですが、彼を釈放し、資金提供をして自民党を作らせ、それがずっと日本を統治し続けていることは周知の事実です。これに対して何故誰も何も言わないのでしょう?そろそろ本当のこと、つまりこの国は全く独立などしていないという真実にしっかりと向き合うべきではないでしょうか?その問題に向き合わない限りは、政権交代しても意味があるんですか?

それからもう一つ、あの戦争を起こした時の最高責任者、昭和天皇がなぜ全く責任を取らなかったのでしょう?彼は後に広島に原爆を落とされたことに関して、「戦争中だったから致し方なかった」と発言しました。YouTubeでも見られるのでご興味があったらご覧になってほしい。なぜ誰もおかしいと言わないのでしょう?特に政治家の皆さんはとても言えないのでしょうか?

戦後75年、我々はずっとこういう問題に蓋をし続けてきた。でももう限界なのではないですか?そろそろ本当のことを本気で話しませんか?

私は今後も政治活動を続けます。なぜなら、みんなが思っていてもなかなか言えない本当のことを言う政治家が必要だと思うからです。

もうすぐ衆議院選挙があります。恐らく10月25日と言われています。その時に、私は新しい旗を立てて戦いたいと思います。それは真実と自由と自立の旗。もし本気でこの国を、一切のタブーなしに本気で立て直したい方は是非力を貸して欲しいと思います。

特に現職国会議員の方、こんな他党を除籍された政治家の下に来てくれる議員先生はなかなかいないかもしれませんが、もし今の与野党茶番に飽き飽きしていて、無所属、離党されてでも真実の政治をやりたい方がいらっしゃったらご連絡ください。また支持者の方々の中で、この会見をご覧になって、大西つねきと一緒にやってくれと思う方は、支持されている先生のところにいって口説いてみてください。かなりの無理筋だと思いますが、もし5人も集まろうものならいきなり国政政党です。かなり面白い戦いができるんではないかと思いますが、そうでなくても、私は何らかの方法で衆議院に挑戦したいと思いますので、お力をお貸しいただける方、是非よろしくお願いします。

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