自己紹介

私は東京都荒川区の下町、南千住に生まれた。昭和39年、東京オリンピックの年だ。父は薬品関係の商社にいて、年3〜4回はヨーロッパに出張していた。まだ国際空港が羽田の頃だ。出張の度に羽田へ送り迎えに行き、私は何となくその頃から海外へ出てみたいと思うようになった。

小さい頃の私は本当にグズで引っ込み思案、いつも黙って一歩引いた感じの子だった。幼稚園のお迎えの時、私はいつも一番最後まで出て来なかったらしい。他の園児が我先にと出て来るのに、私はいつまで経っても出て来なかったと言う。皆がいなくなってからようやくノッソリと現れ、全く慌てた風もなく靴を履き替えに出て来るのだそうだ。その理由を聞くと、「下駄箱が混んでいてイヤだから」。私自身は覚えていないが、自分がそうするであろうことは容易に想像できる。三つ子の魂百までとは良く言ったものだ。その性分は今も全く変わっていない。

それでも引っ込み思案とグズはいつの間にか治ったようだ。多分小学校の3年生の時だろう。良い師に恵まれた。何かのきっかけで自信をつければ人間は変われる。お陰で小学校生活は非常に楽しいものになった。学校の周りには友達がたくさんいて、いつも学校から帰るとすぐに遊びに出かけ、日が暮れるまで近所で遊んだ。その環境が私には非常に居心地の良いもので、弟が小学校受験をすると聞いた時、私は随分と反対したものだ。学校から帰った時、近所に友達が誰もいないなど考えられなかった。小学校4年生だった私は相当頑張って抵抗したが、結局利発な弟は見事に国立の小学校に合格した。家族で私だけがひどくがっかりしたのを覚えている。今から思えばいかにも子どもらしい発想だったと思うが、多分間違ってはいなかったと思う。地域で子どもを育てるということは非常に理にかなっている。それがいつの間にか失われつつある現状には何となく危機感を感じる。

さて、そんな私も中学になると電車で私立中学に通うようになった。生徒をウマ呼ばわりする、かなり特徴的な中高一貫の男子校で、正直言って私はこの学校で楽しい思い出は一つもない。ただ、武道にも力を入れる文字通りの文武両道のお陰で、柔道、剣道、日本泳法と、日本男児として一通りの技は身につけることができた。心技体の良い鍛錬になり、それは今も生きている。しかし、学校生活は極めて退屈で、専ら家と学校を往復する毎日、学業成績も平均的で、特に記すべきこともない毎日だった。

転機が訪れたのは高校一年の夏、アメリカにホームステイしたことだ。確か学校経由で申し込めるプログラムがあって、そのお知らせを見て申し込んだのだ。その時、何を思って申し込んだのかはもう覚えていない。ただ経緯はともかく、この時の行くという決断は非常に大きなものだった。これがなかったら、その後の私の人生は大きく違っていただろう。それは1979年、15歳の夏。ロサンゼルスからバスで2時間ぐらいの小さな湖畔の町エルシノアでホームステイした私は、カラッとした明るい太陽の下、自由な空気を存分に吸い、私の中の価値観が大きく変わるのを感じたのだった。その時以来、私はアメリカの自由な人々と文化の大ファンだ。日本の常識が通用しない世界はむしろ痛快だ。そう感じるようになった私の意識はこれ以降、常に外へ向かうことになる。日本に帰ってから、英語を必死に勉強したのは言うまでもない。

結局そのままの流れで私は某私立大の英語学科に入った。そこには様々な留学制度が揃っていて、運良く3年生の時に一年間アメリカに政治理論(Political Science)専攻で留学することができた。留学の条件は学内のキャンパスで皿洗いのアルバイトをすることで、その代わり授業料の85%の奨学金を貰うというものだった。アルバイト代も出たのでかなり良い条件だったが、とにかく膨大な読書とレポートを課されるので時間のやりくりが大変だった。勉強と皿洗いの繰り返しで、寮に帰れば大麻の売人のルームメートが待っている(もちろん私は大麻もタバコも全く吸ったことがない)ような毎日で決して楽しばかりの留学生活ではなかったが、様々な経験が私の対応能力を高め、確固たる土台を築いた貴重な一年間だった。

大学4年生で日本に戻った私はその後一年で大学で卒業、米系銀行の東京支店に就職した。本当は国際的に活動する政府系機関に就職したかったのだがそれがうまく行かず、結局国際的に活動している金融機関ということで外資系の銀行をいくつか廻り、運良く就職できた格好だ。その時に何を本当にしたかったのか、今から思えばはっきりしていなかったような気がする。そんな私がJ.P.モルガン銀行で配属された先は、資金部FX(外国為替)だった。折しも1985年のプラザ合意でG5協調のドル安政策が発表された翌年のことで、毎日数円単位で円高が進んでいる真っ只中、程なく私はそのドル/円のスポット取引を任されることになった。J.P.モルガンは日銀の介入行で、しかもアメリカの連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)の介入行でもあったため、当局の介入をこの最前線で目の当たりにした。貴重な経験だったと思う。この他にも私はいろいろな通貨を担当したが、どうも何かが起こる時はちょうどその通貨を担当していることが多く、ジョージ・ソロスによるポンド危機の時にはポンド/マルクを担当、ゴルバチェフが共産党保守派に拉致された時はドル/マルクを担当し、イラク軍のクエート侵攻の時にはまたドル/円担当に戻っていた。それでも相場師は相場が動いているうちが華だ。91年にやはりアメリカの投資銀行に移り、東証や日米の債券先物、オプションなどにも範囲を広げて取引するようになったが、95年にドル/円が最高値79円75銭をつけたのをピークに次第に相場の動きは鈍って行った。相場師は波乗りのようなものだ。波が立たなければ何もできない。結局翌年の96年には私はその業界に見切りをつけることにした。相場の動きが鈍って来たのも一つの理由だが、業界そのものに疑問を感じたことも大きい。お金でお金を生み出すだけの我々は他に何の価値も生まない。そんな人たちが高給を取っていては、実体経済へのお金の流れが細るに決まっている。かくして私はトレーダーとしての10年のキャリアを終えた。それから十数年経った今、金融危機によってその歪みが明らかになったのは私には当然の帰結に思える。金融業ばかりが栄える世の中が続くはずがない。一声数億から数十億、時には数百億の売り買いを一日中繰り返し、毎日兆単位の売買を行うあの熱狂には正直言って今でも少々心惹かれるものがあるが、その価値観はもう共有できない。ただし、相場に「Once a dealer, always a dealer.(一度ディーラーになったら、一生ディーラーだ) 」という格言がある通り、私は今でも常に相場の動向は注視している。良くも悪くも今だにお金が動かし続ける世界を理解するのに、これほど重要な視点はないと考えている。彼ら国際金融筋の考えが読めれば世界が読めてくる。

私がディーラーを辞めた96年には新しい波がうねりを増しつつあった。ちょうど前年末にウィンドウズ95が発売され、時は正にインターネットの黎明期、日本にYahoo! JAPANが設立されたのが96年だ。多くの人が予見したように私もその可能性を感じ、その業界に飛び込んだ。と言っても、何も知らないまま自分で勝手に会社を作っただけで、仕事などあろうはずもなかった。とりあえずそこから一年以上、無収入のまま必死に勉強した。主にインターネットサーバーをCPUとマザーボードから組み立て、フリーのUNIX OSを載せて構築することを中心に、ネットワーク技術、プログラミング言語等々全て独学で学んだ。まだそれほどインターネット上の技術情報も充実しておらず、検索エンジンもGoogleすらなかった時代だったので主に書籍に頼るしかなかった。読破した本は恐らく3メートルぐらいの厚さになっただろう。とにかくそうしているうちに基本の知識と技術はつき、協力してくれる人も出てくるようになった。それでも2年間は3人の子どもを抱えつつ無収入だったので、ディーラー時代の貯金も底をつきかけた時、初めての大きなお客さんが現れた。それが設立後間もない民主党だ。まだホームページもほとんどないような状態で、その構築とコンテンツ管理を任された。たまたま民主党担当者と共通の知り合いが出版社にいて、その紹介でコンペに参加したら選ばれたのだ。恐らく一番安かったに違いない。いずれにしてもそのお付き合いは今も続いている。あれから13年経ってその民主党が政権を取るとは、当時は想像もしなかった。

私がディーラーを辞めて自分の会社を作ってからそろそろ15年になるが、その間に私はもう一つの仕事を始めている。2004年に私は自宅のすぐ近くにナポリピッツァの店を始めた。為替ディーラー、インターネット関連事業と、手で触れられないバーチャルな仕事を続けてきた私にとって、初めてのリアルな仕事と言える。全く関係ない事業二つを不思議に思われる方も多く、よくその理由を聞かれる。私はそんな時、バランスだと答える。飲食事業は利益率が低い業種だ。一生懸命頑張っても利益率は10%程度、人件費も家賃も高く、初期投資も大きい。投資家にとってあまり魅力的な事業ではない。同じ投資をするなら、インターネット事業の方が場所も取らないし、人数も投資も少なくて済むし、利益率もずっと高い。しかし、それはお金の尺度だけで計った短期的かつ利己的な利益率だ。飲食店が人や社会に及ぼす影響、例えば多くの雇用を生み出し、人と人との出会いを生み、多くの笑顔や満足を作り出す、そんな効果が長期的に社会に及ぼす利益は全く計算には入らないし、増してや投資家の懐には入らない。だが、それは明らかにに存在するし、それを否定することは何か人間の大事なことを否定することだと思う。何らかの形でそれは計算に入れるべきだし、入らないのならお金以外の価値観として少なくとも社会に入れるべきなのだ。残念ながら、今はそのシステムはない。だから私はそれをやっている、というような偉そうなことを言うつもりもないが、私にとっても非常に良い勉強になるのでそうしている。いや、そうして来た。私個人のことならそれでいいだろう。しかし、社会全体を考えた時、自分の子ども達や他の多くの子ども達のことを考えた時、このままではいけないと思っている。何かがおかしいと思ったら、声を上げたり、行動をしなければいけないと思っている。私は今のところ、そんな人間だ。

One Response

  • 何かの間違いか? 私の名前とアドレスが消えない状態でいるような。
    大西さん消去してください。

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